お茶も、お料理も、手芸も、お花も、
なんでもそう。
想いが入るからこそいいものができる。
昔は、感覚で何事も作り上げていたのに対して、
現在はすべて機械化している。
人の想いが入らなくなっている。
便利にはなったかもしれないけれど、
つまらない。
しんさんも言っていた。
昔の人たちは、
道とつく茶道や華道など、道を極めるために、
命を懸けていたと。
諦めることなく、突き詰めていたからこそ、
いまも残っているのだ。
コーヒーマシーンは、あるのに対して、
ティーマシーンは、あるにはあるけど、
なぜ、広まらないかというと、
紅茶は、人の手で淹れる方が美味しいから。
繊細な味は、機械では出せない。
人の感覚は、機械では、はかれない。
紅茶は、今でも手摘みで、人の手がたくさん入っている。
皆さんがわたしが淹れる紅茶は、美味しいと言ってくださる。
とっても嬉しい。
ある程度の淹れかたは伝えることができるけれど、
わたしが感覚的にやっていることを言語化するのは難しい。
淹れている回数も違う。
料理が分かりやすい。
うちの夫は板前。
料理教室は、絶対無理だと言っている。
喋りが苦手なのもあるけれど、
そのときの食材で分量も変えるから、
レシピにすることもできないし、
同じレシピで作ることができないという。
職人は特にそうだと思う。
なぜ?と言われても、
感覚的にそうなので、言語化できないのである。
わたしは、20歳くらいから毎朝必ず淹れている。
ということは、約20年弱淹れ続けていることになる。
紅茶との向き合いかたを知っていて、
毎日淹れているから、ちょっとした味の違いもわかる。
紅茶の味は、その日によって変わる。
ものすごく美味しく入る日もあれば、
いまいちな日もある。
「紅茶と気持ちが通じる日」
があるのです。
ただお茶を淹れるのではなくて、
お茶と向き合って、
気持ちを込めて淹れると、
味は変わる。
原理は、おそらく、豚にモーツァルトを聴かせる
と同じだと思う。
同じものでも、
気持ちを入れたときと入れていないときでは、
全然違う。
それから、一番大切なこと。
忘れてはいけない。
それは、使うものに対しての愛。
わたしは、磯淵先生の紅茶が大好き。
大好きな先生の紅茶だからこそ、余計に想いが入る。
お茶を摘んでくれている人を想い、
お茶を紅茶にしてくれる人を想う。
そして、想いを込めて紅茶を淹れる。
紅茶は、人が飲むから素晴らしい。
世界共通である。
愛しい紅茶。
紅 茶
紅茶の文字さえ愛くるしい。